2024年8月16日
お盆期間中で会議などなく、少し「徒然」しているので、「14」から間隔が短いですが、「15」を書きたいと思います。
先日、岩手医科大学の土井田 稔教授に岩手医大整形外科開講90周年の記念式典に招待されました。そこで整形外科と岩手医大整形外科の歴史についての講演を頼まれたのです。大変なことになったと思い、榊 悟著「誠をつなぐー岩手医科大学さきがけの軌跡」、天児民和著 「整形外科を育てた人達」、岩手医科大学開講70周年記念業績集、日整会誌 「日本整形外科学会80年史」、東京大学整形外科学教室百年史などを読んで勉強して、なんとか講演してまいりました。元々歴史は好きなので、このような調べ物はあまり苦にはなりません。ここで勉強した日本の医学部、整形外科の成り立ちについて書いておきましょう。
明治維新後、政府がドイツ医学を導入したのは皆さんご存知でしょう。先輩で現在東京で勤務している股関節の○ら×き先生などは、若い頃に山形市立病院済生館で若松英吉先生の薫陶を受けたのか、今でも「エッセン行こう」だの「マイネフラウは…」という言い方をします。エッセンは食事、マイネフラウは「僕の妻は…」ということですね。維新政府がどの国の医学を採用するかについては喧々諤々の論争があったそうです。薩摩藩閥はイギリス医学を、長州藩閥はオランダ医学を推し、政治的な判断からイギリス医学に傾きかけたそうです。このとき佐賀藩出身で文部省医務局長などをしていた相良知安が、学問的な見地からドイツ医学の優位性を説いて政府高官を説得し、ドイツ医学が採用されました。このため、ドイツ医学のシステムである大学病院の診療科=医局と、大学医学部の講座を同一の教授が運営し、診療と研究を行う医局講座制が現在の日本でも続いているのです。
明治政府の医事衛生制度は1874年に制定された「医制」により始められます。「医制」では、(1)医学教育過程を修めさらに臨床経験を有するもの、(2)従来開業のもの(仮免状)、(3)医術開業試験合格者、が医師として認められました。さて、日本で最初に作られた大学は東京大学ですね。幕府の昌平坂学問所、開成所、医学所を統合し1877年(明治10年)に官立東京大学がつくられます。その後1886年帝国大学令により東京帝国大学(最初はひとつしかないので帝国大学。京都大学ができた1897年に東京帝国大学に改称)となります。この法令によって1939年の名古屋帝国大学まで日本国内に7つ、ソウルと台北をあわせて合計9つの帝国大学がつくられます。ちなみに東北帝国大学は1907年、3番目の創設です。
話がそれましたが、「医制」によって1877年からは東京大学医学部の卒業生が、1882年からはこれに加え甲種医学校の卒業生も、無試験で医師免状を与えられました。無試験です。羨ましいですね。甲種医学校には21校があり東北地方では1883年に宮城医学校と秋田医学校が、1884年には岩手医学校が認可されています。これらの医学校は府県立であり、費用は地方税から出されていました。一部、私立の医学校もありました。しかし、地方の財政難のため1887年勅令によって府県立の医学校の費用を地方税から出すことが禁止され、多くの医学校が閉鎖されます。残ったのは帝国大学(東京大学)と第一〜五の旧制高校医学部(千葉、仙台、岡山、金沢、長崎)と経営基盤の安定している京都、大阪、愛知の公立医学校、私立の東京慈恵会医院医学校、済生学舎(現日本医科大学)と、1886年設立の私立熊本医学校(現熊本大学医学部)だけでした。またまた余談ですが、1894年の第一次高等学校令では、第一〜第五旧制高校が東京、仙台、京都、金沢、熊本に作られますが、このうち医学部だけは第一高等学校が千葉、第三高等学校が岡山、第五高等学校が長崎に置かれました。旧制高校と旧制高校医学部の所在地が異なるのはこのためです。
1906年は東京大学と京都大学に整形外科学教室(京都は矯正外科)が誕生した年ですが、この年医師法が施行され、(1)帝国大学医学部または官立・公立、文部大臣指定の私立の医学専門学校の卒業者、(2)(1)以外の医学専門学校で4年以上勉強した医術開業試験合格者、(3)外国の医学校卒業あるいは医師免許保有者、に医師免許が許可されました。医術開業試験は1916年まで続き、医師試験に変わります。これ以降医師の資格を取るためには、官公立および文部大臣指定の私学の医学専門学校の卒業、またはそれ以外の私立の医学専門学校の卒業+医師試験の合格が条件になります。1919年の大学令により国立の医学専門学校が新潟、岡山、金沢、千葉、長崎、熊本(私立熊本医学校の官制移行)につくられ(旧六医科大学=旧六といいます)、医学教育が整備されていきます。
私立の医学校はまず医学専門学校の認可を受け、さらに医師試験免除の指定資格を得ることが目標でした。1884年に「医制」で認可された公立岩手医学校は、1887年勅令によって税金による運営ができなくなり閉鎖を余儀なくされますが、1897年に三田俊次郎により私立の医学校として再出発します。しかし政府が求める教育環境が整わず、医学専門学校に昇格できなかったため1912年に再度廃校となります。三田俊次郎は医師養成機関の設置をあきらめずに機会を待ち、関東大震災と軍拡の影響から医師の需要が増えた1928年、ついに私立岩手医学専門学校として認可を勝ち取りました。1935年には東京大学から三木威勇治先生を初代教授として招聘し、東北地方で初めての整形外科学教室が設立されました。
ここからは最近話題の東京女子医科大学についてです。明治時代は女性が官公立の医学部や医学専門学校へ入るのが困難な時代で、1884年の荻野吟子以来東京女子医大創設者の吉岡彌生が医師になる1892年までに20名程度の女性医師が誕生したに過ぎません。加えて女性医師教育の中心をなしてきた済生学舎(現日本医科大学)が、学内の不良男性グループが女子学生に対し事件を起こしたために、女子学生の入学を拒否します(悪いのは男性グループだったのに女子の入学を認めない。時代ですね)。野口英世など多くの逸材を輩出した済生学舎は1903年に廃校を余儀なくされますが、翌年私立日本医学校として再出発し、その後1916年に東京理科大学と東京医科大学がここから分かれます。一方で入学を拒否された女子学生のために、済生学舎のOGである吉岡彌生が1900年東京女医学校を創設します。この吉岡彌生の末裔が現在新聞などを賑わせている岩本絹子前理事長のようです(家系図などでは確認できませんでしたが、ひ孫くらいでしょうか)。もし新聞記事が本当だとすれば、創設者の純粋で高邁な理想は薄れてしまったのでしょうか?このようなことは、どこの組織でも起こり得ることです。やはりいつになっても「初心忘るべからず」、ですね。
相澤 俊峰
*参考文献
坂井建雄ほか. 我が国の医学教育・医師資格付与制度の歴史的変遷と医学校の発展過程. 医学教育 2010, 41:337-246.