1942年4月10日、東北大学第三外科学講座を母体として、整形外科が設立された。
整形外科学自体の黎明期であり、主に年長児の先天性股関節脱臼を中心とする小児性疾患、結核性脊椎カリエスなどの骨関節結核を中心として治療と研究が行われた。
国立病院機構西多賀病院の前身の国立玉浦療養所(岩沼市、今の仙台空港の付近)が骨関節結核・脊椎カリエス専門の病院として整備された。
三木教授は、1946年の第19回日本整形外科学会総会にて「所謂五十肩」と題した宿題報告を行い、この報告内容は翌1947年の日整会誌第21巻に掲載された。
また、“rotator cuff”の日本語訳として「腱板」を提唱したのも、三木教授である。
就任宣言:「いかに小さなことでも、また、貧しくても自らのオリジナリティーを見出し発展させることをモットーにせよ」
釜石製鉄病院、県立盛岡病院、国立仙台病院、拓桃園、東北労災病院、東北公済病院、国立鳴子病院など東北各地の病院に整形外科が新設された。
Charnleyと同時期にテフロン製の人工骨頭、人工股関節の開発が行なわれた。
1960年に宮城県育成医療協議会が作られ、先天性股関節脱臼の検診システム(宮城県方式)が確立された。
先天性股関節脱臼の検診、治療、その後の管理に関する一貫した体系づくりが行われ、さらに人工骨頭、人工関節へと研究が進められた。研究面では、歩行メカニズムの解析に教室を挙げて取り組み、多くの成果を挙げた。また骨折に対する内固定金属材料としてステンレス鋼(22A鋼)に着目し、その有用性を動物実験により組織学的に証明し臨床にも応用した。
脊椎の加齢変性についての研究が進められ、脊柱管狭窄症による脊髄や、馬尾の圧迫についての先駆的研究が行われた。
研究面では、退行変性としての骨粗鬆症についての研究に積極的に取り組み、非脱灰標本を用いた骨組織の形態計測法を確立した。
さらに大腿骨頭壊死症の病因についての基礎的研究が数多く行われた。
臨床面では、櫻井教授の専門である腕神経叢麻痺などの末梢神経障害の診療に加え、脊椎脊髄外科の充実が図られた。また、臼蓋形成不全および変形性股関節症についての各種骨切術、人工関節置換術が積極的に行われた。研究面では末梢神経障害の病態と治療、骨代謝の研究に基盤をおいた人工骨の開発、東北大学式人工股関節の開発など、幅広い分野において研究が進められた。
脊椎、脊髄外科を教室の臨床面での柱とし、頚椎症性脊髄症、腰部変性疾患、脊椎脊髄腫瘍、脊柱変形の外科的矯正などに積極的に取り組んだ。
同門の各分野のスペシャリストが中心となって肩、脊椎、股関節、膝関節、手、足、骨折の各研究会が発足した。
研究面では、細胞死と骨軟骨の成長、変性との関係に、いち早く着目し、免疫組織化学的研究に取り組む一方、軟骨細胞および骨軟部腫瘍細胞の培養研究を行った。また、脊髄圧迫モデルによる脊髄のメカニカルな反応についての研究が進められた。
さらに、脊椎骨のバイオメカニクスについて、香港大学との国際的共同研究プロジェクトが行なわれた。
腱板断裂、反復性肩関節脱臼など多くの関節鏡手術を手がけた。反転型人工肩関節置換術も積極的に導入し、良好な成績をあげた。骨粗鬆症治療を臨床のもう一つの柱とし、運動療法やビタミンDに早くから着目し、これらを積極的に治療に応用した。
研究では、骨粗鬆症患者における姿勢と運動療法、肩のバイオメカニクスが世界的に有名で、米国肩肘外科学会ニアー賞、国際関節鏡・膝関節・整形外科スポーツ医学会(ISAKOS)キャスパリ賞など、数多の国際学会での表彰を受けた。また、東北大学金属材料研究所とのTNS合金製人工股関節の開発や、歯学系研究科とリン酸オクタカルシウム人工骨の臨床応用を図るなど、他分野との共同研究も進めた。